2021年8月30日(月)
『デマスはこの世を愛し……。』テモテへの手紙第二4章10節
キリスト教信仰によって、すばらしい社会が実現するということは言えると思うが、それは、キリスト教の目的ではなく結果である。
キリスト教信仰の目的は、主の再臨の時に、イエス・キリストのいさおしによって私たちが神の前に立つことができるということである。
誤解を恐れず言うならば、キリスト教信仰をしてよかったと思うか、信仰しなかったことを不幸だと思うかは、主の再臨の時でしかない。
その時でなければわからないのだ。
宗教は時間や空間から解き放たれる性質のもので、永遠の命とは、時間、空間を超えた世界に入れられることである。
救いとはこのことをさす。
世の終わりの日に、義の冠を着せられるということは、先取りしたものである。
即物的な救いは、ますますこの世に執着し、病気がなおったとか、お金がもうかるということなどが問題になる。
そこに御利益宗教が、宗教として偽りものであると言われるゆえんがある。
キリスト教は先取りの信仰であり、それゆえに決断が必要となってくる。
理屈ではわかっていても、なかなか具体的な喜びになってこない。
キリスト教の喜びは、跳び上がるような喜びというより、主の再臨の時に、私たちがキリストの義の中に入れられるという喜びであるから、それはむしろ静かな喜びなのだ。
「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った」とある。
デマスはルカと名を連ねるような重要な人で、パウロを助けてすばらしい働きをした人のようである。
「愛する医者ルカとデマスとが、あなたがたによろしく」とあり、パウロが非常にかわいがっていた人であった。
デマスは、この世を愛することによって信仰を捨てた。
そして、パウロをも捨てていった。
私たちもこの世の子なのだから、この世を愛しているのであって、そうではないと言うのはうそであろう。
デマスの教訓から私たちは何を学ぶことができるだろうか。
自分を、また、この世を捨てることなしに、神を愛する生活に移っていくことはできない。
いま信仰があるからといって、安心することはできない。
人は慢心しやすい。
悪魔は私たちの足を引っ張ることをたくらんでいる。
信仰的に高まれば高まるほど、そのようなものにねらわれることを思いながら、信仰の闘いを闘っていきたいと思う。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。
God Bless You!!
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