2021年6月15日(火)
『しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。』ローマ人への手紙7章7節
パウロはこのところで、律法と罪との問題を説き、律法という光に照らされなければ罪はわからないと語る。
律法は私たちに罪を知らせてくれるものである。
そこに律法の大きな意味がある。
今日の時代に、クリスチャンに最も欠けているものは認罪だと思う。
自分がどんなに罪深い者であるかを知らないことである。
これはいまに始まったことではないが、今日は特にひどいように思う。
イエスが十字架についてくださらなくても、救われなくてもかまわないというような思いに、私たちはやすやすと絡めとられてしまうのだ。
キルケゴールは『死に至る病』の中で、自分が死に至る病に冒されていることを知らないことこそ、最も死に至る病であると言っている。
私たちは概念的には、また教理の上では、自分が罪人であるということを知っているが、そのことにふるえ上がるほど恐れおののいているであろうか。
罪の理解はあるが、罪の意識がない。
それは律法がないからである。
なぜ私たちはキリスト教でなければならないのか。
それは自分が罪人であることの自覚と、罪のもだえがなければ起きてこないのではないか。
教えということだけであったら、日本人には聖書よりも親鷺の教えのほうがぴったりするかもしれない。
聖書が教えているのは、これによらなかったら救いがないということ、つまり、イエス・キリストが十字架について死んでくださらなかったら、いつまでたっても自分の罪を背負っていかなければならないが、その罪をかわって背負ってくださったかたがいたという事実である。
ここに私たちの大きな喜びがある。
そのために私たちは、神がどんなに厳しいものを私たちに求めておられるかについて、律法を学ばなければならないのだ。
神の要求、律法とは、そうしたほうがよいとか、理想だというようなものではなく、何々すべし、しなさいという命令形である。
私たちを造った神は、当然それを求めておられるのである。
私たちの命、生活その他いっさいのことを考えてみると、それらは私たちの力の及ばないものであることを知る。
確かにそこには、神の大いなる御手が働いている。
しかしその神が私たちに何を求めておられるかについて、厳しく自分に問うことをしないなら、それを行わない罪人のためにイエスが死んでくださったことはわからない。
イエスはもちろん偉い人であったが、偉い人が私たちに必要なのではない。
必要なのは、神の律法に従いえない罪人である私のかわりに死んでくれる人である。
一つしかない命を私のために捨ててくださったイエスを忘れて、自分のためにだけ生活しているなら、イエスに対してふさわしい実を結ぶことにはならない。
God Bless You!!
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