2021年5月5日(水)
『わたしにつながっていなさい。』ヨハネによる福音書15章4節
「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」。
ちょうどぶどう園の主人が、ぶどうの収穫のために手入れをし、剪定するように、神はつながっている枝に対してそうされるのだ。
よい実を結ばせるためには、伸びほうだいにするのではなく、痛い剪定も、厳しい訓練もしなければならない。
神の子とされるとは、好きなものが与えられ、安穏な生活ができるというものではない。
そこではさまざまな苦難を受けていかなければならないだろうということを預言されたのである。
ときには殉教する人があり、また自分の持ち物を失うことがあるかもしれないと。
失うということは、信仰生活の一つの試練である。
信仰によって与えられるものもあるが、また、失うこともあることを忘れてはならない。
失うことを知らない者は、得ることはできない。
将来あなたがたは失うことがあるだろう、しかしそれは、多くの実をみのらせるために神がなさるのだと、イエスは言われたのである。
枝と幹が互いにつながっているのは、命が幹から枝に流れるという関係である。
私たちがキリストにつながっているということは、 イエスが私たちを清め、贖ってくださった血が、今日も私たちの内に注がれているということである。
どんなときにもキリストに愛されているという事実に立っていくことが、つながっているということである。
もう一つ枝と幹との関係で思うことは、枝は枯れても幹は枯れないが、幹が枯れると枝も枯れるということである。
それほどまでに枝は幹に依り頼んでいるのであって、それが信仰、信頼ということではないかと思う。
信じるとはイエスと心中することである。
もしイエスが沈んでいったら、自分も沈んでいく覚悟をすることである。
私は生きたい、楽しみたい、人からうらやまれるような生活がしたい、出世がしたいというようなことを思いながら、イエスに従っていけるものではないのだ。
戒めを守るとは、御言葉に従うことである。
戒めを守るという具体的な生活の中ではじめてキリストと命の関係になる。
聞くだけでは、私たちはキリストの幹から命をいただくことはできない。
ただ、私たちがそういう関係に入ったとき、命の実を自然に結ぶことができる。
そうなると私たちは大きな喜びに満ちあふれるようになる。
今日の私たちの信仰生活において欠けているのは、聞くだけでそれを実行しないことである。
実行することは決してなまやさしいことではない。
しかし私たちにはできなくても、神を信じるときに、神は手をととって実行できる者にしてくださるのである。
God Bless You!!
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