2021年5月28日(金)
『心に憤りを感じた。』使徒行伝17章16節
パウロたちは、ピリピで思いがけない災難にあったが、ルデヤと獄吏たちを信仰に導き、ピリピ教会の基礎を作り、次いでテサロニケに行った。
テサロニケでは三週間留まり、ユダヤ人の会堂で、旧約聖書に基づいてキリストの苦難を論証し、イエスがキリストであると説いた。
その結果、何人かのユダヤ人と神を敬うギリシヤ人がおおぜいパウロたちに従った。
彼らは喜んで福音に耳を傾けた。
しかし、そのことが町を不安に陥れたのである。
パウロたちは「天下をかき回してきた者」と言われ、迫害された。
けれども、誤解され、迫害されたとき、それを人間の持つ弱さであると見て、甘んじてその汚名と苦しみに耐えていったのだ。
考えてみるならば、クリスチャンとは、そのように生きて、歴史を正しくしてきたのではあるまいか。
新聞に載るとか、時の人とか言われる人々が歴史を動かしてきたのではない。
歴史を動かしてきたのは、投獄されたり殺されたりした人たちではないか。
パウロはアテネに行き、「市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた」。
偶像を拝みながら、いかにも宗教家、宗教心に富んでいる者ででもあるかのごとくふるまっている人々の無知蒙昧に対して、パウロは憤った。
この憤りにこそ、イエスをキリストと宣べ伝えずにおれなかったパウロの生き生きした信仰が示されている。
信仰に無知な人たちを見たら、じっとしておれなかったのである。
私たちの信仰にも、そういった情熱を持っていなくてはならない。
パウロは福音に絶対的な確信を持っていた。
私は福音で救われた。
十字架によって罪ゆるされた。
これ以外に道はない。
このことをほんとうに確信したならば、他のものを求めている人々を見たら、パウロのような情熱を感じるに違いない。
信仰がなければ伝道はできない。
そういう点で、伝道は信仰のパロメーターである。
パウロはアテネの人たちに、福音をわからせようと考えて語った。
そう思って語れば語るほど、彼らはわからなくなった。
私たちも人に福音を伝えようとしていくとき、なんとかわかるように説こうと努力するが、むだに終わることが多い。
福音信仰は、宣言を受け入れることなのである。
神は愛であるとか、神が天地を創造されたというようなことは、わかるように話してもわからせることはできない。
私はあなたを愛していますと言っただけでは、愛はわからない。
相手がその言葉を信じ、自分の全人格を投げかけてくれるところに、信じ合う世界がある。
双方が信じ合ってこそ、愛の現実を知りうるのである。
福音も説くことは必要であるが、説くことでわからせようとしたら、失敗である。
God Bless You!!
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