2021年4月28日(水)
『今後はもう罪を犯さないように。』ヨハネによる福音書8章11節
イエスは、罪人や取税人、いわゆる裁かれ、差別され、疎外されていた人たちに手をさし伸べていった。
イエスはその人に注がれている神の愛を見て、彼らを愛していった。
しかしそのイエスの道を、パリサイ人や律法学者たちは快く思わなかった。
彼らは一人の女を連れてきて、罪を犯している者に対してイエスがどのように言われるか、興味津々見守っていたのである。
もしゆるしなさいと言えば律法を破ることになり、打ち殺せと言われると、イエスがゆるしを説いてこられたことと矛盾する。
するとイエスは静かに、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた。
この女を罰するにふさわしいと自信のある人はやりなさい、しかし自分自身を深くふり返ってみるなら、そういうことはできないのではないか、自分も同じようなことをしているのではないか、ということである。
そのことに気づくとき、人を裁くことはできなくなる。
イエスも「わたしもあなたを罰しない」と言われた。
これは、イエスが自分をふり返り、自分も人を裁くほど清廉潔白ではない、すねに傷持つ身だからこの女を罰しないと言われたのではない。
その罪をイエスが引き受けられたのである。
十字架においてイエスが引き受けてくださることによって、はじめてその人の罪はなくなるのである。
イエスは十字架のゆえに、非常に寛容なかたであり、どんな罪をもゆるされる。
しかしその寛容には一つの願いがあることを忘れてはならない。
その願いとは「今後は罪を犯すな」ということである。
いままでの罪はわたしが引き受けるから、今後は罪を犯すなというのが、イエスの私たちに対する願いである。
罪がゆるされているのだから、今後は互いにイエスに対して真実に、そして罪を犯さないように生きていこうではないか、というところに、他者に対する愛があるのだ。
マルチン・ルーサー・キング牧師が黒人解放運動の中で、絶えず言ったことは、「白人を私たちは憎んでいないのだ。
白人のみなさん、私たちはあなたがたを愛しているのです。どうかこの愛を受けてください」であった。
どんなむごいことをされても、白人を憎んではいけない、憎んだら負けだと、どこまでも愛していった。
それがキング牧師の解放運動であった。
「わたしは世の光である。
わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
私たちはともすると、世の光にならなければならないと背伸びをするところがある。
世の光であるとは、立派な人間であるという意味ではなくて、私たちはただイエスのゆるしと愛を受けることにおいて、世の光という存在になることができるのである。
God Bless You!!
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