2021年4月18日(日)
『あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。』ルカによる福音書22章32節
過越の祭の最中に、自分たちの中でだれがいちばん偉いかという口論が起きた。
どちらが正しいとか、偉いとか思うのは、人間のみにくい一面である。
確かに私たちは絶えず自分を他と比較しようとする。
しかし神と自分との関係がはっきりしてくれば、人と自分との関係は問題ではなくなってくる。
「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。
それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
ペテロとはイエスがつけられた名前であり、シモンはそれ以前の本来の彼、肉に生きていたころの名前である。
イエスは本来の彼、イエスから離れた彼の姿を、シモンの中に見られたのだ。
サタンは、私たちがキリストによって装っているときは近寄れないが、生まれつきの自分になったときに襲ってくるものである。
イエスがこのとき、「あなたが試みにあわないように」ではなく、「信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われたことは重要である。
試みは人間の世界には必ずあるもので、それがなくなれば、人間は人間でなくなる。
神は私たちからいろいろな試みを取り除いてくださって、幸せな小春日和のような生活をさせてくださるかただと思いやすいが、そうではなく、神は私たちがいろいろな試みにあったとき、信仰がなくならないよう祈ってくださるかたなのだ。
信仰さえ持っておれば、どんな試みも、私たちにとって決して悲しんだり、恐れたりするものではないということを示されたのである。
人を喜ばせるカナの婚宴のぶどう酒も、いつかなくなる時が来る。
私たちの人生の喜びは、自分は病気でないとか、あるいは自分の家に不幸がないという事実の上に成り立っている。
しかし、そういうぶどう酒が切れてしまうとき、そこにイエスをお招きするなら、イエスはそこで栄光をあらわしてくださるのだ。
私たちはみな金もうけや、健康や、どうやって友人をたくさん持とうかと考える。
それ自体は決して悪くはないが、そのようなものの力の及ばないところがある。
たいせつなことは、私たちが地上的なものを次にして、イエスにまず求めていく、イエスをお招きすることである。
そこに栄光を拝する者とされる喜びがある。
God Bless You!!
a:46 t:1 y:0