2021年3月3日(水)
『あとの者は先になり……。』マタイによる福音書20章16節
16節まではぶどう園の譬えである。
これを読んでいて、何か割り切れないもの、一つの矛盾を感じるのではないか。
それは、最後の者も最初の者も一デナリを受けたということだけでなく、最後の者から支払いがなされたということである。
同じ貨金を払うのであれば、朝早くから来て働いた人から払うのが順序ではないかと思う。
あとから来た人から支払ったのはなぜなのか。
それを解く鍵は、私たちが自分がどこに立ってこれを読んでいるのか、そのことを考えるとき、この話の指し示そうとしているものを知ることができる。
私たちはいつも、自分が最後に来た者であることを忘れやすい。
自分がそういう小さい者であって、いちばんあとに来た者なのに、大きい者や、いちばんはじめに来た者であるかのように思いやすいのだ。
この小さい者を愛してくださる神がおられることは大きな喜びである。
神の前にはだれよりも小さい者であると思う者が、いちばん大きな恵みにあずかることができるのだから。
自分のみじめさ、小ささ、弱さというものを神の前に気づかず、自分は正しい者、立派な者であるというふうにしか思えない人は、福音の喜びを味わうことができないのではないか。
天国においては、自分が小さい者、弱い者であることを知ることこそが、何よりも大事である。
そのように思えるとき、この譬えは、矛盾ではなく、喜びとして、福音として伝わってくるのだ。
さて、17節から19節に、イエスは再び十字架の預言をされた。
イエスは、決して十字架だけを説いたのではなく、十字架ののち三日目によみがえることも説かれた。
私たちはともすると十字架は十字架で終わってしまうように思いやすい。
しかし十字架ですべてが終わるのではなく、十字架のかなたによみがえりがある。
それは勝利の生活である。
それゆえ、私たちは大胆に十字架を負っていくことができるのだ。
三日目に、イエスはいっさいのものの主になられた。
復活がどんなに大きな意味を持つものであるかを心に刻みたい。
God Bless You!!
a:52 t:1 y:0