2021年3月15日(月)
『向こう岸へ渡ろう……。』マルコによる福音書4章35節
35節以降のところは、イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われたところである。
私は昨年の3月13日にこのところを読んで、私自身、少し大げさかもしれないが、この言葉に命をかけて立ち上がった。
弟子たちにイエスが言われた言葉が、私に対してイエスが言われたことのように受け取れた。
それ以降の私の生活は、病床から立ち上がり、神にできるかぎり仕えていく生活に変えられた。
無理ではないかと私の体のことを心配してくださる人もある。
自分でも無理をしているのではないかと思うことがある。
しかし、向こう岸に渡ろうと言われた主の言葉を思い出すたびに、これでよいのだと思う。
向こう岸へ渡ろうという言葉は私にとって、終生忘れることのできない言葉になった。
そういうふうに、ひとつの御言葉に自分の命をかけていくとき、大きな力、恵みが与えられていくのではないかと思う。
イエスは向こう岸へ渡ろうと言われたが、向こう岸へ渡るためには、海を越えていかねばならない。
聖書の中に海という言葉はよく出てくるが、それは不安をあらわすことが多い。
私たちの信仰生活もこの不安を越えることなしに、向こう岸へ行くことはできない。
イスラエルの人たちが神に愛されておりながら、神の約束の地に行くためには、荒野をさまよわねばならなかったように、私たちが信仰生活の向こう岸へ行こうと思うとき、絶えず不安が起こる。
私たちは不安と恐れで、岸辺にしがみつく。
風が吹いても、岸にいる間は自分の身は安全なのであり、不安はない。
多くの人は自分の身の安全を考えて、渡らないのである。
向こう岸へ渡ろうと言われたイエスの言葉に聴いて、船を乗り出すとき、そこには激しい突風が起き、船は沈みそうになる。
自分が向こう岸に着く前に、船が沈んでしまっては、何にもならないではないかと思うわけである。
確かにそういうことはある。
私たちは、この世の道理に従っておれば、比較的安全に過ごすことができるだろう。
神の道理に従うとき、この世の道理と衝突し、痛い目にあうだろう。
この世の生活で人々と交わり、自分の肉体のこと、家族のことなどいろいろ問題を持ちつつ、神を求めていくためには、さまざまな苦しみや闘いがある。
しかし、それが私たちの負うべき十字架であると思うとき、私たちは向こう岸へと渡ることができるのである。
God Bless You!!
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