2021年12月21日(火)
『私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。』ピリピ人への手紙1章21節
キリスト教は、キリストの十字架の死によって始まった、というのは過言ではありません。
そのようにクリスチャンの生涯も、キリストとともに死ぬ、ということから始まります。
使徒バウロはピリビ人への手紙の中で、「死ぬことも益です」と言いましたが、この「益」ということばはもうけものという意味です。
クリスチャンにとっては、いのちはキリストであり、キリストがうちに内住し、生きて働いてくださるとき、キリストのために死ぬことは、また大きなもうけものなのです。
私たちがキリストのために死を覚悟するとき、そこには次の三つの大きな祝福が現れます。
第一に、キリストのための大胆さ。
「どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って……」と、キリストのために、大胆な信仰、生活が始まります。
私たちが臆病になり、消極的になる理由は、私たちが自己に死なないところから出てきます。
しかし、一度死ぬことを決心し、覚悟するとき、不思議と人をはじめ事情、境遇をも恐れぬ大胆さが出てくるのです。
第二に、キリストのためのあかし。
「私の身によって、キリストがあがめられることです」
私たちが自我を捨てて、むなしくなったとき、初めてキリストご自身のすばらしさがあかしされます。
実はキリストの栄光を傷つけ、汚しているのは、他人ではなく、私たちであり、私たちのうちにある自己、自我、エゴなのです。
これが、キリストとともに死に、キリストによって心が占領されるとき、そこにキリストのいのちが現れてきます。
これこそクリスチャンの真実なあかしです。
生きたお方、愛の源泉、恵みと知恵に満ちたキリストが私たちを通して周囲の人々に大きくあかしされるとは、何とすばらしいことでしょうか。
第三に、キリストとの深い交わり。
「生きることはキリスト、死ぬことも益……」とは、キリストとの深い交わりです。
これは十字架の交わりともいうべきです。
私たちが自我を放棄して、キリストの御心のままに生きるとき、キリストが心の王座におられ、すべてのすべてとなってくださいます。
ただキリストだけがすべてなのです。
死は人類の敵であり、悲しい出来事です。
そして、その人のすべてが終わる時です。
しかし今やそれが益となり、死によってキリストがあがめられ、神の栄光となるとは、何とすばらしいことでしょう。
それは主イエスの死と復活の恵みによるものです。
今は復活のキリストがわが内に住み、わがいのち、すべてとなってくださいます。
それに、死と死の恐れをもってくる孤独や病気、迫害もすべて喜びとなります。
ただ感謝あるのみです。
God Bless You!!
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