2021年11月20日(土)
『イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。』ルカの福音書6章12節
イエスは公に見せびらかすことを避けるために山に行かれたのではありませんか。
もし人に見られるために祈るなら、私たちは報いを得るでしょうが、それは哀れなご褒美となることでしょう。
得るのは、浅はかな愚か者の賞賛だけです。
もし祈りの目的が神からの祝福をいただくことなら、人に見られて台なしにされないようにして、祈りをささげるべきです。
神の御手を動かしたいなら、ひとりで神と対峙しなさい。
断食するなら、そのことを人に見られないようにしなさい。
個人的に神に嘆願するなら、それを誰にも言わないようにしなさい。
注意すべきは、これが神とあなた自身のたましいだけの秘密であることです。
そうすれば御父は公然とあなたに報いてくださるでしょう。
しかし、もしパリサイ人のように、あたかも大通りの辻でラッパを高らかに吹くような見せびらかしをするなら、パリサイ人が陥った所、すなわち偽善者が永遠に神の怒りをこうむる所に行くことになるでしょう。
それゆえイエスは、邪魔されず、たましいのすべてを注ぎ出す機会をとらえ、虚飾を避けるために、山へ行かれたのです。
神の御子にふさわしい、なんという社大な礼拝堂!
どんな壁が、これほどふさわしかったでしょうか。
どんな部屋が、これほど力強いとりなしの祈りをするお方にふさわしかったでしょうか。
神の御子は、天と交わろうとするとき、自然という神ご自身の壮麗な宮に、もっともふさわしく入られたのです。
巨大な丘々と月光の投げかけた長い影だけが、イエスにふさわしい道連れでした。
ゴージャスな式典の見せびらかしなど、人けのない山腹における大自然の真夜中の栄光に匹敵しうるものではありません。
そこでは、星々は、神がご覧になっているのと同じく、礼拝するイエスを上から見おろしており、風はあたかもイエスのため息と涙の重荷をその身に負おうとしているかのようでした。
ペリシテ人の宮で巨大な柱を動かしているサムソンなど、ナザレのイエスに較べたら、子どもだましに過ぎません。
イエスは主の大いなる宮で、ただひとりひれ伏し、天と地を動かしておられるのですから。
父なる神様。
私も人目を避けた場所であなたを求めたいと願っています。
どうか今日、あなたの御手を動かすことができますように。
アーメン
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