2021年10月29日(金)
『しかり、わたしはすぐに来る。』ヨハネの黙示録22章20節
世の終わりの時に実現する聖都エルサレム、新しいエルサレム、すなわち神によってきたるエルサレムが、21章の9節から22章の5節までに記されている。
聖なる都エルサレムは完璧である。
人間には完璧を期することはできないが、神のなさることは完璧である。
そのことが、金やいろいろな宝石でその町が造られているという言葉で表現されている。
私たちは完璧を願うが、失望し、絶望することが多い。
そういう点で私たちは、完全なものは主から来ることを覚えなければならない。
「これらのことをあかしするかたが仰せになる、
『しかり、わたしはすぐに来る』。
アァメン、主イエスよ、きたりませ」
この世は今後どうなっていくのだろうか。
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり……」。
これからどうしていけばよいのかという不安の中に生きている者にとって、「しかり、わたしはすぐに来る」という言葉はどんなに力強いものであろうか。
どんなときにも「アァメン、主イエスよ、きたりませ」である。
この言葉は、神の約束に自分の人生をかけているときにはじめてロにすることができる。
神を待ち望んでいる者、神でなければ私たちの世界、私たちの問題は解決できない、神の解決しか望みがないという世界に生きている者にとっては、「しかし、わたしはすぐに来る」という言葉ほど力強いものはない。
そして私たちは、この言葉を力強いものとしていつも聞けるような姿勢をとらなければならない。
聖書の言葉を聞いても、私たちはそれを都合のよい言葉、都合の悪い言葉というように取捨選択しやすい。
それは神を信じていないことであり、自分が主人となって神の言葉を取捨選択していることなのだ。
私たちの神はほかの偶像などと違って人間が造った神ではなくて、人間を造られた神だというようなことをいくら言っても、その自分自身が神の前に立つ偶像になっているとしたなら、何の力にも、弁明にもならない。
互いに御言葉に聞き従っていくときに、「しかり、わたしはすぐに来る」というこの言葉が心の底から自分を支え、強めてくれる。
そこで、「主イエスよ、きたりませ」、来てください、すぐに来てください、いま来てくださいと祈っていくのだ。
「アァメン、主イエスよ、きたりませ」。
主イエスの恵みが一同の者と共にあるように。
私もその祈りをもってこの聖書講義を終わりたいと思う。
God Bless You!!
本日をもって、『ちいろば牧師の一日一章 新約聖書篇』を終えます。
2022年から新しいシリーズがはじまりますが、それまで色々な著書から毎朝のデボーションメールをお送りします。
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