2021年10月19日(火)
『産みの苦しみと悩みとのために……。』ヨハネの黙示録12章2節
「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた」。
この一人の女とは、天上のエルサレム、キリストの花嫁である教会をさすものであろうと言われている。
その女が子を宿し、産みの苦しみと悩みとのために泣き叫んでいた。
教会がキリストを宿すということは、産みの苦しみと悩みとをなめることである。
教会が単なる人間の集団である場合には、悩みや苦しみを味わう必要はない。
しかし教会がキリストを宿し、キリストを産む、すなわちキリストのからだなる教会として生きるとき、そこには苦しみがある。
キリストが唯一の救い主であるという告白こそが、キリストを産んでいくことなのである。
そのような信仰生活をしていこうと思うときに、地上では戦いがあり、産みの苦しみがある。
地上は、私たちを信仰に押しやってくれる世界ではない。
そこではいつも信仰の戦いがある。
自分が神を求めたくなったから求めるとか、聖書を読みたくなったから読むとか、祈りたくなったから祈るというのは、どこまでも自分が主人であって、それは信仰の態度ではない。
私はキリストの僕であるとパウロが言っているが、僕は、その主人が良かろうが悪かろうが、終生仕えていくべき者である。
それを逆に、気に入らないからと捨ててしまったり、きょうは気分が向かないので教会へ行かないというのでは、これはまったく自分中心である。
私たちはともすると、自分が主になってキリストが従になっている場合が多い。
それはキリストを主と告白していないことなのだ。
キリスト教信仰をしても、殉教することもなく生き、むしろみんなから喝采されながら生きていくような生活もある。
あの人はなかなかよくできた人だ、心の広い人だと言われながら生きていける人もいる。
反対に、キリストを信じるがゆえに、あの人は偏狭だ、頑固だ、個人主義だ、自分のことしか考えない人だと非難される生活もある。
私たちはどうしても、非難されることを好まないで、ほめたたえられることを求めやすい。
もちろん、人からいやがられることを求めていくのが信仰だというのではない。
私たちはやはり人をつまずかせないように、愛の心を持って、この世の中にあってはこの世の人たちとテンポを合わすべきところは合わしていくべきだと思う。
しかし、ことキリストに関しては、敢然と信仰告白をしていかなければならない。
信仰告白とはイエスを第一にしていくことであり、自分の都合や利得や立場が従になることである。
そういう信仰を告白していくときに、産みの苦しみが伴うのは当然である。
God Bless You!!
a:29 t:1 y:0