2021年10月12日(火)
『七つの封印で封じてあった。』ヨハネの黙示録5章1節
第5章は七つの封印と、小羊に対する礼拝のことが書かれてある。
普通、巻物は内側だけに書いてあるものだが、それが外側にも書かれていたとは、神には言いたいことがたくさんあったということである。
そういうものが七つの封印で封じられていた。
黙示録を読むとき、七つと書いてあれば完全というふうに読み替えればよいと思う。
完全な封印で封じられていたとは、人間の力や知恵では開けられない封印であったということである。
この封印を開ける者はだれか。
封印とは、啓示の言葉である。
封印を解いて読む者、解く者、それにふさわしい者はだれか。
「巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた」。
神からのおとずれが来ているのに、それを解く人がいないことを知って、悲しさに泣いたというのである。
聖書は、たとえどんなに知識や知恵がある人でも、すばらしい経験を持った宗教的な天才であっても、解き明かすことはできない。
だから聖書を読んでもわからないと言う人があるのは当然である。
聖書を読め読めと言われて、読んでみたがわからないし、おもしろくもないと言う人があるが、それは当然である。
聖書のために生涯をささげている者でもわからなくて、夜も寝ずに苦しむことがあるのに、思いついたときに読む人が簡単にわかるものではない。
それは忍耐強く一生懸命に聞いていかなければわかるものではない。
完全な封印がなされているのであるから、それを開けることもできないのである。
ただ一人それを解くことができるかたがいる。
ダビデの若枝であるユダ族の獅子、キリストである。
キリストだけ、つまりキリストの霊を受けたならば、幼子でも聖書を理解することができる。
信仰の奥義とはそういうところにある。
だれにもできないことが、だれにでもできるということ。
しかしそれは神からいただかなければならない。
信仰とは与えられていく世界、受けていく世界、生かされる世界である。
上からの御霊の注ぎを受けなければ、きょうまで雄弁に語っていた人が何も語れなくなる。
そういう意味において、聖霊を、御霊の注ぎを、毎日毎日求めていかなければならない。
水が低きにつくように、私たちはいつも神の前におのれを低くしていることが必要である。
貧しい者は幸いである、神の国はその人のものである、というのはそのことである。
自分のむなしさ、弱さ、限界を知って、神に憐れみを求めていきたいものである。
ヨハネが、私ははげしく泣いたと書いてあるが、私たちは聖書がわからないということについて、どれだけ泣いているだろうか。
自分自身を吟味しなければならない。
God Bless You!!
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