2020年8月2日(日)の手紙

2020年8月2日(日)


『主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。』エレミヤ書10章23節


先日、あるご婦人から電話があり、神が語られるのを聞くことについて質問を受けました。

「神様からの導きがあり、神様が語られるのを聞いたということは、どうしたらわかるのでしょうか。
このあいだ、神が語ってくださったと確信したので、言われたことをやってみたのですが、うまくいきませんでした」。

少し質問をしてみてわかったのですが、彼女は別の人たちのところに行って、神はこれこれのことをするように自分を遺わされた、と力強く語ったのですが、その人たちには神がそのことの中におられるのがまったくわからなかったそうです。

いったい、何が間違っていたのでしょうか。

私自身の経験から教えられたことですが、神の助言は、ほかの人に話す前に自分の心の中に敬意をもって留めておきます。
心に保って、それについて考え、神のご性質に当てはまるとわかっていることと比べ、いつでも動けるように注意を怠らない従順な心をもちながら、そこに留めておくのです。

自分の置かれている状況の扉がもしも開いたら、慎重な足取りで静かに動き、神が与えてくださったと思われる指示に従います。

そのとき起こる可能性のあることが二つあります。
一つは、目の前で扉が閉まり、指示を間違って受け取っていた、とわかること。
もう一つは、扉が大きく開いて、指示を正しく受け取っていた、とわかることです。

どちらの場合も私はたくさんのことを学びます。

後者の場合、そのとき起きたことを、神が選ばれる人(神の選択であり、必ずしも私の選択ではありません)といつでも話し合えるように備えています。
多くの場合、神が私たちの行動を後押ししてくださるまで話し合うのを控えているほうが賢明です。

結局のところ、真の証しとは、主ご自身がどのようなお方で、どんなふうに導いてくださっているか、その時々の状況の中で私たちのためにどんなことをしてくださっているか、を単純に語ることなのですから。

神の声を聞くことはすべて、神の王国は内側にあり、王はご自身の王国におられるということを覚えてさえいれば、きわめて単純にすることができます。

主の御霊は内側に住んでおられます。
本当の私の内に、本当のあなたの内に神の臨在があるのです。

「私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」とパウロは書いて、自分自身の内にこの内住があることを認識しています。

主を捜して外に出ていく必要はまったくありません。
主は決して私たちから離れず、いつもそばにおられます。
神は決してほかのことに気を取られず、いつも注意深く、私たちを気遣ってくださっているのです。

もしもあなたがイエス・キリストに応えているなら、あなたはクリスチャンです。

その応答の中に、主の臨在が内にあるという事実、日々の生活の大小すべての出来事において主が私たちの内におられ、ともにいてくださるということが含まれているなら、満ち足りた創造的なクリスチャンだといえるでしょう。

ロザリンド・リンカー


私たちが日々、まず神の指示を求め、次にそれに従っているなら、新たな状況を迎えたときに、これから与えられる新たな恵みを受ける備えができていることだろう。

今日という日は、明日への備えとなるべきである。
私たちが明日の試練に耐えうるという唯一の証拠は、今日の試練に信仰と勇気をもって対処していることだ。

明日、神のみこころを望み求められる唯一の証拠は、今日、神のみこころに従っていることである。

W・G・S


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