2020年11月22日(日)の手紙

2020年11月22日(日)


『むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。』ペテロの手紙第一4章13節〜14節


私の若き日のある夕べのことです。
主イエスは私のたましいを引き上げ、天が与えることのできない機会、すなわち主の苦しみに入る機会を、この世の人生が与えてくれるのだと教えてくださいました。

そのとき私は美しい夕焼けを見つめながら、その中にキリストが永遠という終わりのない歳月において与えてくださるすべての麗しきものと栄光と喜びとを見出す思いでした。

主がこうおっしゃっているように思えたのです。
「神が「涙をことごとくぬぐい取ってくださり」、もはや死はなく、罪も苦しみもない天の国で、あなたは完全な力と罪のないたましいでわたしに仕えることができるのだ」と。

そしてこうもおっしゃったのです。
「わが子よ、あなたはわたしのために再び苦しみを受けることができるだろうか。
わたしのために再び涙し、わたしのために孤独になり、わたしのために何かをあきらめ、家を離れて闇の中に足を踏み入れ、わたしの苦しみに入ることができるだろうか」

私はイエスの御顔を見つめて言いました。
「ああ、主よ。わたしは永遠が何をもたらそうがかまいません。
主がおっしゃったとおりになるように、今すぐそうなりますように」

私の人生のもっとも甘美な瞬間、私がまさに主の受難に入ったのは、1900年の中国における義和団の乱のときでした。
それによってキリストのために失われた命は何千人にも上りました。

恐ろしい暴動によって、私は殴られ、石で打たれ、夫やほかの人々とともに傷つき血を流したまま、半死半生で見捨てられたのです。

そのとき、光に照らされるように私たちが抱いた思いは、イエスの御顔を見て、主のために苦しみと恥と死ぬ思いを味わうことができたということでした。

そうした歓喜はそれから四日間も私たちのたましいに満ちあふれ、私たちは自分が地上にいるのか、天の御国にいるのかわからないほどだったのです。

ハワード・テーラー夫人


さて、遠からず、主が来られて、私の疑問にすべて答えてくださり、「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」だろう。

であるなら、私はぬぐい取っていただくものを何も持たない人の仲間入りをしたいなどとは思わない。
あなたはどうか。

J・H・T


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