2017年10月19日(木)
『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと』コリント人への第一の手紙15章3節~4節
以前「WWJD」という言葉が、クリスチャンの間で大流行した。
これは「イエスならどうするだろう?」という英文の頭文字。
この文字の入ったブレスレットは、多くの人にとって有益なものだった。
イエスの御心を考えて行動することを、忘れないようにと意識させてくれたからだ。
自らの態度や決断をイエスが示された手本に照らしてみるのは、救い主に栄光を帰する生き方をしたいと思う人たちにとって正しいことだ。
ところで、WDJDという別の文字があることをご存知だろうか。
それは「イエスは何をされたか?」の頭文字。
実は、それこそもっと重要な質問なのだ。
なぜなら、私たちの救いは、このこと無しでは語れない。
神の御子がなさった素晴らしい業の中の最たるものについて、パウロはこのように語っている。
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」だ。
イエスは、何をしてくださったのだろう。
私たち咎のために苦しみを受け、罪を背負い、十字架の罰を受けてくださった。
また死んで、死に打ち勝たれた。
それによって、私たちが生きるようにためだ。
実際のところ、イエスが私たちのために十字架でしてくださったことをしっかり受け入れることなしに、「イエスならどうするだろう」と十分に考えることはできない。
私たちは、自分が何をしたかではなく、キリストがしてくださったことによって救われるのだから。
God Bless You!!
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