2014年1月19日(日)

2014年1月19日(日)


『しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』イザヤ書53章5節


惨めで、激しい痛み。
情け容赦ない痛み。
言葉にできない、耐え難い痛み。
むち打たれた、背中の焼け付くような傷の痛みに耐えながら、ゴルゴダの丘を一歩一歩登って行かれ、救い主イエスは、私達の罪の身代りに刑罰に処せられた。

私達は、「まあ、いいんじゃないの」と言うのがスマートだという風潮に流され、罪を見ても騒ぐほどじゃないと、考えがちだ。

小さな嘘をついたり、少々ずるかったとしても、どれほどの害があるだろう。
噂話や毒舌で、誰が傷付くのだろう。
そんな罪が、それほど悪いのだろうか。

その答えは、「悪い。そういう罪がイエス様を十字架につけたのだから」。
私達の罪が、イエス様を苦しめ、十字架にはりつけにし、残酷に殺したのだ。

当然ながら、過去をやり直す事はできない。
イエス様の痛みを、反転させる事はできない。

だけど、もし罪だと分かっている事を、ずるずる続けるなら、それは、イエス様に背を向け、イエス様の苦しみを無視している事に他ならない。
まるで、イエス様を苦しめた原因は、自分の知った事じゃない、自分は自分のやりたいようにやらせてもらうと言っているようだ。

十字架の光に照らされながら罪を犯す事は、イエス様に向かって「凄まじいあなたの苦しみでさえ、私に罪の恐ろしさを悟らせてはくれなかった」と言う事だろう。

なぜ、罪がそれほど悪いのだろう。
それが、主イエスに何をしたのかを考えてみれば、おのずと答えがでるだろう

God Bless You!!

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