2013年10月8日(火)

2013年10月8日(火)


『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』ピリピ人への手紙2章6節~8節


クリスチャンは、イエス様がカルバリで払われた犠牲の意味をよく理解している。
だけど、その時イエス様が、どれほどの苦痛を感じられたかは忘れがちだ。
最大の苦しみは、父なる神との別離だったけれど、肉体的な苦痛も想像を絶するひどいものだった。

私達は、よく無意識に十字架を美化したりするけれど、それはたぶん賢明な事じゃない。
教会の屋根やアクセサリーの十字架は人目を引く飾りだけれど、十字架刑の本当のありさまは、何ひとつ伝えてはいない。

十字架刑は、最もむごい死刑執行の方法のひとつだった。
処刑される者は、木の十字架に寝かされて、釘が手足に打ち込まれた。
その後、十字架は持ち上げられて、地面に立てられた。
十字架上で肉は引きちぎられ、耐え難い激痛が走っただろう。
歴史家によると、ローマ兵でさえ、このひどい光景に耐えられなくて、感覚を麻痺させるために強い酒を口にしたというのだ。

救い主の肉体的な苦しみを改めて意識し、十字架の犠牲を感謝すべきじゃないだろうか。
イエス様は、命を捨てるほどに、私達を愛してくださった。
十字架の苦しみをいとわないほど、愛してくださったのだ。

私達は、知らなければいけない。
すべてを犠牲にしてくださった、このお方のために、犠牲を払いすぎる事はないという事を。

God Bless You!!

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