2013年10月28日(月)

2013年10月28日(月)


『わたしの定めに歩み、わたしのおきてを忠実に守るならば、彼は正しい人である。彼は必ず生きることができると、主なる神は言われる』エゼキエル書18章9節


ことわざは、一般的な原則であって、絶対的な真実じゃない。
そして、誤用される事もある。

「この親にして、この子あり」。
これは真実を含んでいるけれど、誰がどんな場面で使うかで、なるほどと言えるかどうかが決まる。

もし、自分の過ちを正当化しようとしているなら、親に責任転嫁して、自分は犠牲者を装っているのだ。

バビロンで捕囚となっていたヘブル人達は、故国へ帰るだけじゃなく、神様にも立ち返るべきだと、預言者エゼキエルは願っていた。
だけど、説得はなかなかうまくいかなかった。
ヘブル人達は、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」ということわざを用いて、言い逃れをした。

このことわざは、自分達が捕囚になった責任は、前の世代にある事を意味している。
「私達に悔い改めろなんて、冗談じゃない。
全部、親の責任だ。
親が酸いぶどうを食べた尻拭いを、自分達はさせられているのだ」と抗議したのだ。

そこで神様は、エゼキエルを通して「あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる」と告げられた。

人は皆、自分の行動の責任を負っておる。
過ちを犯した時に、誰の責任にするかは、その人の性格を正しく表しているのかも知れない。
ことわざは、人生の良い道案内だ。
決して、言い訳のためにあるんじゃないと、ことわざをこよなく愛する私はそう言いたい。

God Bless You!!

a:56 t:1 y:0